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2005年 01月 23日

写真と記憶。

さっき偶然NHK で、浅丘ルリ子が自分の生まれた中国・長春を訪ねる番組を見た。
14歳でデビューした彼女の両親は旧満州で出会い結婚して、かの地で次女である彼女を含めた3人姉妹を出産。終戦で引き揚げ。60年経った今、自分の生まれ故郷を訪ねる旅。
その中での印象的なシーン。父親がかつて勤めていた役所や、自分が生まれた(であろう)病院を訪ねた後、河か湖か、ある水辺にやってくる。

 そこで大切そうに鞄から取り出した2葉の古い写真。一枚は幼い姉が庭で父親と一緒に写っている。もう一枚は、あどけない姉とまだ若い母が何かを指さし水面を眺めている水遊びの写真。
写真の背景に遠く見える崖のシルエットとそこへ続く海岸線は、現在の彼女が今立っているまさしくその場所から撮ったらしく、まるで写しのように同じカーブを描いている。彼女は写真の中で何度も見たこの風景を確認しにここへやってきたのだった。
写真の中の風景と、今目の前にある3Dの風景。まったく同じなのに、紙の中に焼き付けられている母娘はそこにはいない。ファインダーを覗いていた父親も。
「もう3人ともいないのよね・・・」寂しげに微笑んだ後、こらえきれずこみ上げてきた嗚咽を飲み込む彼女。



 この家族の過ごした過去の時間と記憶が当時ぎっちりとこの異国には詰まっていたはずで、そのなかのたった一瞬を偶然切り取り、幸いにも失われる事なく今彼女の手のひらの中にある写真。

かつてリアルタイムにそれぞれの網膜に映り、家族の思い出の中に生き、確実に存在していたのだけれどでも写し取られる事を選択されなかった膨大な時間があって。その反対に、たまたま幸運にもカメラの中に収められた一瞬の風景だけが記録として残り、それを見る者によって反芻されて、いつのまにか記憶になる。(たとえ自分はその風景に居合わせなかったとしても。)

記憶はその瞬間を生きた者に所属するのかと思っていたけれど、そうではないんじゃないか。いつかその人の生命と一緒に記憶のデータが消去されても、その「記録」を見る者が居続けるかぎり記憶はリレーされる。そんな気がした。
そして選択されなかった膨大な時間たちさえも、その切り取られた一瞬の中に凝縮されているような…
上手く言えないけれど不思議な感覚に襲われました。
写真って、不思議。
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by chiori66 | 2005-01-23 00:21 | つれづれ日々の泡


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