2005年 05月 25日

「これ、見ろ。以上!」

まじめにデザインの話をします。(※面白くないですから)
私、プロダクトデザインの仕事をしています。知らない方のため念のため。

先日誰だったかデザイン周辺ビジネスの方と話をしていたら、
「コンセプトなんて後でつければいいんだよな」なんておっしゃられた。
そいでもって皆さんもうんうんとうなずかれた。

久々に聞いたよ、そのセリフ。へぇ〜。
えっと確か最後に聞いたのはバブルの頃だったかなー。
あまりに久々に聞いたので、ある意味懐かしく感じられた。いまだにそういう人、いるんだ…。



実際、そんなものなのだろう。多分ほんとに、俗世間では。(私は絶対やらないけどね。)
出来上がったデザインなり物を見て、それが本当に最初からコンセプトに基づいているのか、なんて正確に判定できるだろうか?もしくは、まことしやかに捏造された「後付け」かどうかなんて。
商品の開発コンセプトをしみじみ読んで納得して買う消費者はいったいどれだけいるか?
たぶん、世の中的にはあんまり関係ないんだろう。どっちだって。

デザイナーの立場からいえば、確かに意図なく思いがけずふと出来上がってしまったものもある。
かたち先行、直感優先。そういう時も実際あるし、むしろその方が良いものができる場合もある。
それはそれでよし。

でも、それに「コンセプト」という名のもっともらしい能書きを後からくっつけるのはどうなの?それはまじめに考えられたコンセプトさんに失礼だろう。
それならば「これはかたちを追求したらこうなったんです(コンセプトはありません)」と白状する方がいっそ潔い。
…まぁ、それじゃあ学生のプレゼンみたいで企業の会議室では通らないこと必至だけど。


なんでこんな話をするかといえば、あるデザインプロジェクトの記録を見ていて、色々思うことがあったのだ。
美しい椅子が並ぶ写真と、美しい言葉。
でもなんだか、ひどく嘘っぽい。

家具デザインというジャンルの中では「椅子のデザインはむずかしい」といわれている。
その難しさっていうのは、構造や技術的なこととか見た目の整合性とか、まぁ色々な意味でのことなのだが、

実は「デザインした、その人が出てしまう」という怖さでもある気がする。

椅子はギリギリの要素で成り立っている構造物だから、誤魔化しようがない。
知識経験での上手い下手や熟練度ということは確かにあるけれど、それよりもデザインしたその人の人柄とか知性とか、世界に対する向き合い方とか〜つまり本質的な部分が、単なる生活道具の意匠の中に如実に表れてしまうのである。
これは怖い。
どんなにことばで飾ったりはぐらかしてもムリ。見る側はそのまやかしなんて瞬時に嗅ぎ分けてしまうから。
テキトーなものはテキトー。薄っぺらなものは薄っぺら。

椅子の原寸図を描きながら(たまにしかやりませんけど)いつも思い出すのは、ロシア正教のイコン画家の話。彼らは祈りと断食の中で聖画と向かい合う。個人の意図の入り込む隙間なし。
椅子のデザインに取り組む時は、緊張するしエネルギーも使う。何か特別なことを始めるような気持ちで、どこか居ずまいを正してしまう。(その肩の力入りまくりで全然カジュアルにできないっていうのがよくないんだけどね、私の場合。)
デザインごときを神聖化するつもりはさらさらないし、そもそもデザインなんて全然神聖でもなんでもないんだけど、

口ばっかりの連中を見ていると、
こちとらマジでやってんだぜ、言い訳すんなよ。と鉄拳食らわせたくなる。

だから、安易に言葉に頼ってはいけない。(含・自戒)
見えてしまっている本質を前に、たとえ美辞麗句を並べてみても、それは空々しく見えるだけだ。ってこと。

私は、ほんとうに美しいかたち美しい考えは人を黙らせるし納得もさせられると思っている。
そうでないとしたら、それはきっと何かが足りないのか、あるいは多すぎるのか、まだそれが本来あるべき状態に至っていないのかもしれない。
美しさの感じ方は人それぞれ千差万別だけど、きっとその中にも普遍的な何かがあるはずだという思い(/という幻想?)を携えて進む旅みたいなものだと思っている。かたちを探すことは。

私だって言いたい言い訳なんて100万個はあるけどさ!

「モノを見て下さい。言いたいことはこの中に全部入ってますから!」って自信持って言えるようになりたいと思ってるのよ。
(だって座右の銘は「Just Do It.」だし。)

ま、いいか、人のことは置いてといて。我が道を精進、精進。

※煮え切らない文章ですまんですたい。
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by chiori66 | 2005-05-25 01:47 | つれづれ日々の泡


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